今日、私の教え子A君を呼び出して映画撮影についていくつか思っていることを伝えました。
彼の作っている映画は「すべてのことが醜く見える大学生」の物語。
そんな大学生がある田舎の駅で不思議な画家の男性と会い、心が優しく緩んでいく話。主人公はA君がモデルです。
A君はいい加減なところのない、とても信頼できる学生で、将来が楽しみなのですが、反面少々自分を繕うところがあります。
そんな彼が、地方での撮影の後、作品に興味を失ったような態度を示していて、協力してくれた周りへの感謝が感じられなかったのが、今回呼び出した理由でした。
表層的な感謝や他者への労りの気持ちのなさは、単にその人間の薄情さ、性格の悪さ、実力不足からきているとは限りません。
話をするうちに以下のようなことがわかってきました。
・・・まず、A君は自分に自信がない。
そして、同時に自分が愛せない。
これが濃厚にあるので、まずこのつまらない自分を誤魔化し、周りに目立たないように子供っぽい、Z世代風の学生に擬態させて、大人や周りを欺こうとしているかのようです。
この状況に伴って出てくる人間としての特徴は、表情の暗さ、事務的な対応、消極性です。
さらに、自分に自信がない場合、本来、自信をつけるために努力したり、知識を意識して補ったりするものですが、これができない。
その理由は自分自身を直視したくないからです。
(なぜ直視し難いほどに自信がないかも議論しましたが、ここでは省きます)
自分が自分自身をより良くするために、何かチャレンジしたり改善したりするのではなく、意識を自分自身に向ける時間を極力減らし、自らをも誤魔化してしまうという状況にあります。
これで、「映像的センスがあるのに、映画を見てさらにセンスを磨こうとはしない」という残念な現状を説明できます。
A君の肉体にはこうした「誤魔化し」や「繕い」がアトピーと言う形で具現化しているのかもしれません。外面のコントロールと内面に矛盾があり過ぎ、肉体的に境界線が炎症を起こしてしまっているような印象です。
A君と、上記A君の内面営みについて、ここまでクリアに合意できました。A君は堰を切ったように泣き始めていました。
そして、私が提案したことは作品自体への愛を強めることでした。
「自分に自信がない。だから、周りの人間にも、自分の映画にも愛を与えられなかったはず。よって、そんな与えろって無茶な話では?」と思う方もいるかもしれません。
ですが、多くの成功哲学の偉人たちが「苦しい時ほど愛を与えるべき」と説いていることは、ひょっとしたらご存知の方も多いかもしれません。
私の知る限り、ナポレオン・ヒル、ジョセフ・マーフィー、ノーマン・ビンセント・ピールの3巨頭が異口同音に唱えています。
そして、何より私自身がこれを実践して今まで生き残ってこれた、と断言できるような人間なのです。
自信がないから愛が与えられない、と言うのは思い込みで、「愛を与えると自信が高まる」と言うのが真理です。
A君が極力目を背けてきた自分というものは、他者に愛を与えて目減りするようなものではありません。
まして、彼が当面、愛を与えていくのは自分をモデルにしたオリジナル映画作品。
自分自身の似姿といっても良いものです。その自分の鏡のような作品をよくよく磨き込んで行った時に、そこに映し出されるのはクリアに爽やかに晴れた表情のA君自身であると断言できます。
・・・この点も、A君は強く共感してくれました。そして、作品をこれから愛していきたいと決意を語ってくれました。
「たかだか映画」と捉える方もいると思います。
しかし、人を本当に感動させるためには自分自身の心にテーマをとる必要があるのが映画。
だから必然的に制作の過程で自分自身の心に向き合うのが映画なのです。
向き合った時に、こうした自分自身の心の問題に逢着できた若者は、きっと静かに人生を加速させていくものと信じています。
A君、がんばれ!
レイシェル青春映画塾 塾長 園田
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